✉︎ contact
清内路 HIROBA →

伝統も想いも、この先へつなぐ。
HOME
HOME
food
体験
experience
自然
nature
文化
culture
移住
emigrate
ニュース
news
アクセス
access

自然

Nature
赤子ヶ淵

赤子ヶ淵
赤子ヶ淵

悲しい民話を残す赤子ヶ淵。自然の作り出す豪快な水の流れは一見の価値があります。

【赤子ヶ淵にまつわる悲しい伝説】
天正10年2月(1585)織田信長は、宿敵甲斐の武田氏を討たんとして伊那谷へと侵略してきた。南端を守備する下条氏、小笠原氏は戦わずして投降し、武田方より加勢にきていた武士たちも高遠城へ逃げてしまったため、飯田城の人たちは大慌てだった。
飯田城主の坂西氏は、ひとまず木曽谷へ落ち延びて再起をはかろうと、わずかな手勢と夫人と幼児を伴って城を脱出した。しかし逃げる途中で敵の伏兵に襲われ、家臣の久保田・竹村の2人に幼児延千代を預け息絶えた。
延千代を預かった2人は、笠松峠を越して黒川を渡り、山路を南下したが青立ちの沢に迷い込んでしまい、牧立ちの平に出たときは日暮れ近くだった。ここからは道もよく、間もなく清内路の鳩打の道に出た。安心したのも束の間、峠のほうから敵方か人の声が聞こえてきた。それを追ってだと川端の岩陰に隠れた。けれどもその時には、若君延千代は空腹と背負われて山中をさまよっている内に虫の息となり、用意してきた薬を飲ませたがついに息が絶えてしまった。
十六代三百数十年続いた飯田城主坂西家も、はかなく滅亡してしまった。
その後、この辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった。
「赤子なる淵に散り込む紅つつじ昔語れば なみだ流るる」



>前のページに戻る



当サイト内の文章・画像等の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。
制作:Design Sakurairo
清内路 HIROBA →